ある程度の信頼を置いている人が客観性に振った話をしていると他人と自分は別だということを思い出す。美しい生、そして美しい生無くして美しい死も無い、それが一旦の結論という風潮を、比較的自分に近い界隈では感じる。美しさは自分の感覚として取り扱うのは前提として、そうであってもやっぱり実感として掴み取るという意味合いでの主観とは異なるんじゃないかと思う。学んだものとか。ある単語をどのように使うかという部分には多少の自由がある。しかしだとしても、既存のニュアンスの中からしっくりくるものを選択する程度だと思う。もっとクリエイティブに言葉を、そしてしかもツールとして利用するのではなくて遊び程度の感覚で愛せたらすごく楽しいだろう。孤独で理解不能な言葉を使う人生をやらなければ美しいと言ったって美しくない。判断を下したくはない。
自分を通り抜け可能な存在と認識し世界に溶け込み全てを自分として取り込んだり排出したりすることを認める。もしくは、特異点としての自己の妥協を許さず境を硬く硬くぴかぴかにし何とも交わらずまるで何も無かったかのように生き死んでいく。
人間に許される選択肢はこの2択なんじゃないかと思う。