HONEY'S BAR

自分から遠い場所にいる他者も心がある人間だ ということを想像できていない人間が、恥ずかしげもなく、尊厳を無視して踏みつけ入り込んでくる、ことから自分を守るために、どうしてこちら側が、過剰なまでに警戒し対策を打たなければいけないのか?若い女だというだけで、心と頭が無いように扱われること、は本当によく起こる、けれどそれに関してはこちらにも非があるというか、いや私は悪くないんだけど、すでに作られている前提をわかっているのなら、やっぱり例えば強く自己主張して威嚇するとか、しなければいけない。私はおかしなことを言っていますか?

 

見てもらえればわかってもらえるとかは完全に甘え。殺してしまうかもしれないし殺されてしまうかもしれない覚悟で、全部体外に表出させられるようにしたい。
やっちゃいけないことって実は(実はっていうかあきらかに)あんまり無い。
嫌なものは沢山あり、好きなものも沢山ある。そういう視線を失わない。

 

つまらない、インプットが足りない、ゆえの馬鹿な執着
インプットにしろアウトプットにしろ、周りでいかなる摩擦が発生しても、意思に関わらず変容を拒む自己を、発見し確認し強固にしていく、作業なのだろうと、人を見ていて思う。

自分は、感覚を認識するために言葉にしていく、感覚型の人間なのだろう。
認識しなければ存在しないものに、価値はあるのだろうか?
空洞な言葉を築き続けているのではないか?